親の責任に於いて・・・

北海道公立小中学校事務職員協議会 会長 常陸 敏男(ひたち としお)

2013-09
~夕陽の渡島大島~(デジタル一眼レフカメラで撮影)

ある土曜の朝、テレビの報道番組で、児童扶養手当と遺族年金の併給禁止の問題点について議論がされていまし た。児童扶養手当を受給していた母親が、離婚した元夫が亡くなったことで遺族厚生年金を受給し始めたが、後の現況確認で児童扶養手当が受給できないことが 分かり、この場合、金額が多い児童扶養手当を選択することは出来ず、しかも過去の重複受給分を返納しなくてはならない-そのため、貯金してきた長女の大学 進学資金を取り崩して返納することになった-という内容でした。
この話の要点は、遺族厚生年金の受給は放棄することが出来ず、その結果、額が多い児童扶養手当が受給できず、額の少ない遺族厚生年金を受給せざるを得な いという、社会通念に照らせばどうにも不合理と思えるこの仕組みの問題点が、以前から指摘されていたにもかかわらず、改正されずに時間が経過しているの で、一刻も早い改正をするべきだ、というものでした。また、重複受給した児童扶養手当を返納しなければならないが、既に改正に向けた作業が始まっている (概算要求に盛り込まれているそうです)のだから、返納をしなくて済むようにはできないか、という観点の議論もありました。返納の問題に関しては、遺族厚 生年金を受給する段階で担当者が、併給出来ないことを伝えていれば回避できたことであり、いわゆる縦割り行政の問題がここでも見られるという風に思いま す。
いずれにしろ、このような矛盾は出来るだけ早く正すべきだと思いますが、このケースのように、マスコミで大きく取り上げられることで初めて立法や行政が 動き出すような事例は少数で有り、依然として制度の矛盾に多くの人が泣かされているであろう現実は想像に難くありません。生活者に近い位置から声を上げて いくことの重要性はますます大きくなっていると言えるでしょう。
さて、今日の話はここでは終わりません。この問題の議論の中程で、この番組の司会者が「子育ては社会全体で行うという(諸外国の・・フランスの国名が挙 げられていたと記憶していますが・・・)ことについては、どうなんですか?」という問いかけに対し、出席していた政府与党の女性国会議員から「我が党の基 本的考え方は、第一義的には親の責任に於いて子育てされるべきものと・・・」という返答がありました。「第一義的には親の責任に於いて」・・・ヨーロッパ 特に北欧諸国を中心に「子どもを育てることは社会(国)の責任」という概念が強い国が多いですが、それでも「第一義的には親の責任」ということを否定され る方は多くはないと思われます。さてその場合「第一義的」とは何を指すのかが問題なのですが、皆さんはどう思われますか?「親の責任」と聞いてまず思い浮 かぶのは、「躾」又は「衣食住の確保」といったところでしょうか。そのような既成概念もあり、「第一義的には国の責任に於いて」と言い換えた場合、現在の 日本ではちょっと違和感があるようにも思います。しかし、この違和感は実はその国の政策によって変化するものなのではないか-例えば「小学校から大学ま で、学校の授業料をはじめ学校で使うノートや鉛筆、給食費や遠距離の生徒の通学費にいたるまで、一切無償です」とか「子どもが産まれた場合は、月々2万円 の児童手当が18歳になるまで支給されます。出産費は無料です」となれば「第一義的には国の責任」ということにも違和感が無くなってくるのではないか-た だ、私たちはそういう経験をしたことがないので、「第一義的には親の責任」に多くの人が違和感を感じないのだ、と考えられるのかもしれません。だとすると 「第一義的には親の責任」とした場合、そのような社会一般の了解を口実として親の責任が拡大解釈されてしまうことを危惧しなければならないと考えます。言 葉の上では共通理解を得ているように思える「第一義的には親の責任」も、具体的な政策・制度設計の段階では大きな隔たりを生じるものです。そのことに関し て私が大変強く感じることの一つに、学校徴収金の問題があります。学校徴収金の問題については、今後も「会長の部屋」で扱って行きますが、今日は次の文章 で問題提起をしてみたいと思います。
以下の文章は、外付けハードディスクのファイルを整理していてたまたま見つけたのですが、ファイル名から推察するに、新聞投稿のために途中まで作成してそのままになっていたもののようです。

この時期学校では、来年度の就学援助申請用紙の回収が行われます。学校に届けられる書類の、申請理由を記載する欄には、今日の不況を反映してか「倒産」 や「収入減」などの文字が目につきます。しかし、A4版の紙切れにびっしり書き込まれた「家族構成」や「職業」欄からは、家族が寄り添って必死に生活を守 ろうとする様が垣間見られ、私は思わず胸が熱くなります。一方で、3月5日付朝刊の「子どものいる風景」では、「小学校お受験」の見出しと「小学校受験専 門塾、月謝4万2千円」の記事が掲載されました。この対局ともいえる二つの情景を私たち学校現場の者はどのように捉えたらよいのでしょうか。「教育の機会 均等」とか「適度な競争は必要」とよく言われますが、「機会均等」は守られているのでしょうか。「適度な競争」への参加資格はどの子どもにも平等に与えら れていますか?どうして日本では義務教育の学校に通うために教材費を納めなくてはならないのですか?教育のために税金をどう使うか、関係者が厳しい議論を しない限りこれらの疑問は解消されないでしょう。(ファイルの日付は2009年3月15日)

いよいよ来週は、全道事務研が開催されます。今年はどんな論議が作られるでしょうか。今研究大会の基調報告では「私たちのすすめる『領域の深化・発展』 は子どもの教育権を保障するような作用として目標設定され、具体的実践を伴うものでなくてはなりません。」という提起をしました。どの分科会、分散会にお いても、一度はこのことに触れた論議がすすめられることを願っています。

2013年9月9日